産業とまちづくり
1869年(明治2年)に東京に首都が移転し、人口が激減して、京都はしだいに活力を失っていきました。しかし京都市民は伝統都市の復興、改革への意欲に燃え、街の復興に向けて様々な施策が実施されました。
その顕著な例が、西陣を中心とする繊維産業の近代化です。京都府は、産業基立金の一部をもとに「西陣物産会社」を設立し、すべての染織業者を部門別会社に統合して資金貸与を行い、東京や大阪への販売拡張、原料の共同購入や流通の合理化などに努めました。
また、洋式の先進的織物技術であるジャガードを導入するため、1872年(明治5年)、西陣機業界はフランスへ人を派遣し、明治33年頃には、西陣の一般の織物はほとんどジャガードによって生産されるようになりました。
こうして生産機構や技術面で近代化を進める政策が、次々と実施されていきました。
しかし技術面では革新的な発展を遂げましたが、生産機構は零細機業の集合という古い体質から脱却することができませんでした。
当時の大地主の土地運用の仕方は、大規模な土地開発ではなく、私的な小規模な開発が多いことが特徴でした。また、まとまりのある土地は、細分化され、新たに長屋や町家が建設されていました。
このように、今日私たちが目にする西陣の風景の一部は、近代において形成されたものも少なくなく、当時の産業の展開と市街地空間の形成は密接につながっています。