京の通り

 京都では、「道」が、都市民衆の生活空間として「まちづくり」に重要な役割を果たしてきました。道は、商業・交易の場や繁華街、祭・踊りの場、また巷所(こうしょ)や辻子(ずし)、路上の井戸や洗い場、コミュニティ・スペースなど都市民衆の暮らしの場となり、後には自治共同体でもある「町(ちょう)」の成立基盤ともなりました。
 8世紀頃、左衛門町(さえもんのまち)や修理職町(しゅりしきのまち)に「町(まち)」と呼ばれる市場が発達しました。
 12世紀後半になると、都市住民の生活用品などを売買する場は、「町(まち)」と呼ばれる南北に走る小路、「町(まち)の小路」に変わっていきました。

昔の通りの模型(京の街角)
通りで遊ぶこども
現代の通り

 平安京は条坊制(じょうぼうせい)に基づいてつくられた計画都市で、道よりも条や坊などの街区を中心に成り立っていた都市でした。今日、誰もが日常的に使っている「~通り」という表現が広く用いられるようになったのは、戦国時代になってからです。
 これは、都市民衆による計画都市の住みこなし、すなわち住民のまちへの様々な働きかけが進んだ結果、生活空間を軸に都市構造を理解していくようになったことの表れでしょう。

巷所(こうしょ):大路や小路の一部を水田や畠、また住宅の敷地とするなど、宅地化・耕地化した道のこと
辻子(ずし):条坊(じょうぼう)制に規定されていない道路のこと。近世以降の路地、いわゆるロージとは異なる点もあるが、その前例といってよい面がある。
築地塀(ついじべい):土塀の上に屋根を葺(ふ)いたもの。
条坊制(じょうぼうせい):東西に通る大路によって区画された「条(じょう)」、東西南北の大路で区画された「坊(ぼう)」、坊を四つに分けた「保(ほ)」、さらに保を四つに分けた最小の街区である「町(まち)」からなる、街区を道の明確な階層的秩序のもとに整然と組み立てた都市システム。たとえば「左京三条一坊一保一町」というと、それは住所表示のための地番であり、かつ行政の末端組織の一つをも意味した。