歴史都市京都の都市像

 京都というと思い浮かぶ「歴史都市」というイメージは、実は近代国家・都市行政の演出の結果でもあります。
 京都府は、明治初期の早い段階から、社寺の堂社修理への援助や名所周辺の道路整備を行いました。これは、名所旧跡や歴史的建造物が京都の復興策の中心であった観光を支える資源とみなされていたからです。また経済的復興という面からだけでなく、京都に住む人も、京都を離れ他都市に住む人も、「京都人」としての拠りどころが必要となっていました。当時、前近代からの評判を受け継ぐ「優美」な山水美が「優美」な京都人を生み出すという考え方があったようです。

寺社

 明治以降、京都では「京都博覧会」や平安遷都千百年記念祭と合わせた「第4回内国勧業博覧会」、大正大典と記念博覧会、昭和大典と記念博覧会など、博覧会や国家的儀礼が次々と開催され、都市全体を巻き込んで「歴史観光都市」としての演出が行われました。
 また「歴史都市」としてのイメージの演出は、観光資源として山の景観をコントロールし、山の風景を創造していくという考え方も生みました。