祭りの役割
京都で最も有名な祭りである「祇園祭」は、氏子である住民にとっては、代々受け継がれてきた非常に大切な行事です。山鉾に関する多くの行事は、町ごとに独自に進めています。
1864年(元治(げんじ)元年)の大火により、鉾町も大きな被害を受けました。商売にも差し障りが生じ、生活基盤が不安定な中での祭りの復興は困難を極めましたが、とりあえず会所飾りから始め、鉾や山を組み立てられるようになれば居祭を行うなど、それぞれ出来る範囲で段階的に祭を復興していきました。
明治5年には、いくつかの山鉾を除いて、ほぼ大火以前の巡行に復興しました。しかし、同年、祭を財政的に支えていた寄町制度が廃止されました。この時、祭の存続を憂えた人々の人力により清々講社が設立され、運営資金を氏子地域全体から集める仕組みができました。
明治45年には市電の開通に伴い、京都府から巡行中止の勧告が出され、祭の存在を巡り、大きな議論になりました。 建物のビル化など、町の変化も祭のあり方に影響を与えています。また夜間人口の減少により、路地家屋や借家住まいの住人にも町費の負担金を増すなど、町衆といわれる旦那衆の祭であったものから、担い手が変化していきました。
しかし、町にとって大切な祭の準備などを一緒にすることで、新しい住民と以前から住んでいる人との間に会話が生まれ、顔のわかるおつきあいが始まるきっかけともなっています。