まちなみづくり
秀吉は、1587、88年(天正15、16年)に洛中検地(らくちゅうけんち)、1589年(天正17年)に市中町割と寺町形成、1590年(天18年)に御土居(おどい)築造と地子(じし)免除など、あいついで画期的な都市政策や大規模な都市基盤の整備を実行し、京都の城下町化を図りました。
「洛中検地」は町人の宅地の規模を一筆ごとに測量、確定し、町ごとに列挙したものであり、各町の規模が決定されることになりました。その結果として洛中を走る東西南北の通りの道幅をも定めることになったのではないかと考えられ、これが近世、そして近・現代の都市空間の原型となりました。
1601年(慶長(けいちょう)6年)、徳川家康が二条城の造営を行ったことにより、京都は大天守をいただく近世城下町となりました。しかし、1619年(元和(げんな)5年)には政権の拠点を江戸に置くことにしたため、京都は首都としての地位をふたたび失い、都市の活力に翳りが見えました。
18世紀になると、人口増加が始まり、市街地内部の空閑地(くうかんち)の再開発や周辺の市街化が進行しました。これらの開発の多くは、寺社などの領主による大規模なものにしろ、商人資本による小規模なものにしろ、経済的開発行為であり、利益をあげることを目的に行われたことが特徴です。
たとえば、京都東山の山麓から鴨川にかけての一帯には寺社領地が多くありましたが、その一部が領主や開発を代行する町人によって次々と宅地に変貌(へんぼう)していきました。このことは、新たなまちなみをつくりあげ、また洛中の都市域を郊外に拡大させていくことになりました。
御土居(おどい):集落の周囲に防御のためにめぐらした土塁。
地子(じし):律令制で、公田の賃貸料の称。